比例道
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diary/20060505

J・P・ホーガン星を継ぐ者

Zガンダム映画の「星を継ぐ者」の副題を見て、これはちょっとほらの吹きすぎというかホーガンに失礼ではないのかと思ったのは私だけではあるまい。巨人たちの星3部作(「内なる宇宙」もいれると4部作)の第一作めであるホーガンの「星を継ぐ者」に匹敵するクオリティがZガンダムにあるとは口がさけても言えない。副題は「カミーユ・ビダン」とか「クワトロ・バジーナ」くらいにしておくべきだった。
ホーガンは序文や後書きで人類の行く末に対して楽観的であると自ら述べている。本編の中でも理想主義者ではない現実主義者を主人公にして、理想を求めて無茶をするのではなく、現実と理想の折り合いをつけるのが最善である風の描き方をしている。これらからホーガンは知性と節度のある常識人に思える。が、実はこれは隠れ蓑ではないかと思っている。ホーガンの本質はテューリアン人に代表される理想主義者ではないか。他人に対して悪意を持たず、支配することも興味はなく、ひたすら自分を高め真実を追い求め、社会の調和を求めるテューリアン人の生き方への憧れこそがホーガンの本質だと思う。ただ、それを強く主張すると現実の世界でうまく泳いでいけないから、妥協の結果現在のような物言いになったのだろう。
こう思ったのは巨人の星3部作中では、中世のキリスト教の非人道的支配も、近代のソ連のテロリズム行為も全てジェヴレン人の仕業というひどく単純なメカニズムとして描かれていたからだ。いくらなんでもここまで単純化することはないだろうと思った。悪を単純化するのは、理想(正義)を単純化することの裏返しだ。このことから彼(ホーガン)が実はテューリアン人なみの理想主義者ではないかと予想したのである。ただし、理想を声高に掲げると現実社会から排除される危険があるからそのリスクを犯すまいとカモフラージュしているのだろう。
私は理想主義者、特に科学を基礎として論理を展開している理想主義者はもっと主張してもかまわないと思っている。悪いことをやめよう、他人を傷つけないようにしよう、地球を大事にしようという主張がはばかられる世の中の方がよほど変だ。とは言え、それが難しいもの知っている。誰もが前田慶次郎のように自分の思うように自由に生きられる力を持っている訳ではない。