比例道
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diary/20070125

焼き入れ焼き戻し

娘のお気に入り番組のザメイキング.今回はあまり面白くなかったらしい.バームクーヘンの回を見た後では目を輝かせてその作り方を私に説明してくれたものだが,今回は作っているものが何であったかすら良く分からなかったようで話があいまいだ.娘のあいまいな話を総合すると,作っていたのはどうも金属の球らしい.油に漬けていたと言っていたので,油による焼き戻しをしていたようだ.ということは炭素鋼だ.大きさは指先くらいだったとのことと,まん丸にするのにがんばっていたとのことから判断するとどうやらモノはパチンコ玉のようだ.娘は油に漬けていたのがなぜかが気になっていたようだ.
これに対して機械屋の私としては,焼き入れ焼き戻しのことを娘に説明して「おとうさんすごーい」と言ってもらおうと思ったのだができなかった.炭素鋼のオーステナイト化やマルテンサイト変態を分かりやすく説明するストーリーを思いつけなかったからだ.さらに油による焼き戻しを説明するためには,冷却速度によるマルテンサイト変態の度合いの違い,冷却速度を変えるために水や油を使い分けること,油と水で冷却速度が変わるのは油の潜熱と水の潜熱の違いによること等々を解説しなくてはならない.9才の子供に分かるように説明するのは難しい.
水の潜熱が他の物質に比べて特に大きいことを言い出したら,我々にとって最も親しみのある液体である水が,実はかなり特殊な物質であることも説明したくなる.冷やしても暖めても体積が増える不思議な物質であること,大気圧で固体と液体と気体が同時存在できる3重点を持つこと,水が液体でいられる温度が地表温度になる位置に軌道を持つことができた地球はとてもラッキーであったこと.おかげで生物が生まれやすかったこと.水について話し始めたらきりがない.
おっと,話を焼き入れ焼き戻しに戻そう.私は焼き入れ焼き戻しに関しての基本的なことは大学に入るずっと前,そう小学生の頃から知っていた.これは私に限ったことではなく,大抵の人は焼き入れで鋼が硬くなることは知っているだろう.焼き戻しをすると少し硬さは減るが,ねばさが向上することも良く知られている.さらに物知りな人は焼き入れで早く冷やすとより硬くなることも知っているだろう.焼き入れに関する物理現象が機械屋でない一般人にも誤解なく知られていることは,ネットのせいで誰もが実を伴わない頭でっかちになりがちな現代社会においてはかなり驚くべきことだ.
ネットで情報を収集するのが一般的になっている現在では,物事の本質的な意味を理解することなく,表層的な言葉を覚えるだけで物事を理解した気になる頭でっかち状態になりがちだ.2,3年前にそれを強く感じたのが「キャッシュフロー」という言葉を正しい意味で理解している人が,その言葉を使っている人の中にほとんどいないと分かったときだ.「キャッシュフロー」の真の重要性は「会社の金庫にほどよく現金がはいっている度合い」を表現できることだ.ところがキャッシュフローを論じている人たちは何か特別な関数の値としてしか理解していない.彼らと話していると,こいつらは会社経営をまるで分かっていないぞと暗澹とした気持ちになった.キャッシュフローという言葉を知らなくてもキャッシュフローの概念を使いこなしている人は中小企業の経営者に多い.私も15年前には小さい会社の経理担当だったからキャッシュフローの大切さは身にしみている.その頃はキャッシュフローなんて言葉は使われていなかったけれど.私の会社では品物の代金を手形で受け取ることがあった.手形は時間が経過した後でないと現金化できない.品物が沢山売れた直後は,品物を作る材料がなくなってしまう.材料を仕入れようにも会社の金庫にあるのは手形であって,現金ではないので材料を買えない.正確には買えないのではなく,材料は届くのだがその支払い期日までに代金を払えない状態に陥る.そのような状況は実際に起こった.手形を割り引いて現金化することもできるが,きつきつの値付けをしていたのでそれでは赤になってしまう.そのとき私はどうしたかと言うと材料を納めてくれた下請けさんに「代金の支払いを待ってください」と頭をさげて頼みに行った.下請けさんはうちよりさらに小さい会社で,このようなことを頼むのはとても心苦しかった.ところが,みんな「いつも世話になっているから」と快く支払いを待ってくれたのだ.涙がでるほどありがたかった.そんな訳で私はキャッシュフローが如何に大切かということを身を持って勉強できたのだ.
おっと,また話が脱線した.話を焼き入れ焼き戻しに戻そう.これら以外に「焼きなまし」「焼きならし」という言葉も存在する.機械屋はこれらの言葉を(何度も使うから慣れて)自然に使い分けてしまうのだが,普通の人は焼き入れ以外は混同するだろうと思う.誰がこの日本語を作ったかは知らないが,もうちょっと区別しやすい言葉にしておけば良かったのにと思う.英語だと焼き戻し=Tempering,焼きなまし=Annealing,焼きならし=Normalizingと明確に区別できるのだが.他にも鉄(iron)と鋼(steel)を機械屋は明確に使い分けるが,普通の人は混同していると思う.この辺りのことも加味して考えると,焼き入れという概念が普通の人にもかなり正確に理解されていることは驚くべきことだと思う.焼き入れの概念に誰もが親しんでいる理由は,鉄器の普及の歴史,家庭で包丁が利用されるようになった時期とその手入れ方法の変遷,鍛冶屋さんが村の人口の比率に占める割合等々の歴史を調べていけば説明できるような気がする.これは面白い調べ物になりそうだ.