比例道
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diary/20071011

Visualなんちゃらが使えない

私はプログラミングをたまに行うが,M$のVisualなんちゃらというツールが使えない.というか使う気にならない.中身の分からないものは使えない性格なのだ.同じ理由でX WindowのプログラムはXlibで直接書いていた.中身の分からないウィジェットは使えなかった.正体の知れないCコンパイラしかない場合はアセンブラで書いていた.プログラミングに止まらず,普段使う道具もそうだ.コンピュータ制御のエンジン付きの車は運転しない.今でも運転するのはキャブ車だけだ.もちろん,コンピュータ制御でもROMの中身を完全に理解したら運転すると思う.時計を分解してしまう子供と同じで中身が分からないと気味が悪くて仕方がないのだ.
Visualなんちゃらの話に戻るが,どうもこれは素人にプログラミングをさせるために作られたらしい.そういうものに昔LOGOというプログラミング言語があった.LOGOは子供でも使えた.実用プログラムを書くのが難しくて流行らなかったけれど,あれはあれで分かりやすかった.ところが,Visualなんちゃらは素人向けのくせに分かりにくいのだ.その理由は簡単で,Visualなんちゃらを作った人が勝手に定義した概念を無理矢理プログラマーへ押しつけるようになっているからだ.同じことはVisualなんちゃらのお友達のMFC(M$ Fundamental Class)にも言えて,どう考えてもその場しのぎの思いつきとしか思えないような非合理的なクラス分けをプログラマーに押しつける形になっている.Visualなんちゃらに触れると,この非合理性を自分で吸収して消化しなくてはならない.ところが,私は非合理的なものは受け付けない体質なのでVisualなんちゃらを触ることができない.
unixだとプログラムはgccの引数にいろいろ書けばコンパイルできるし,大規模になればMakefileを作れば済む.どちらもシンプルで合理的なツールだ.WindowsだけどうしてVisualなんちゃらが普及しているのか不思議でしょうがない.あれを使っている人はあの非合理性を違和感なく受け付けられるのだろうか.非合理性に慣れると,生物としての進化の道筋を踏み外す危険があるので,慣れない方が良いと思う.合理的なものほど次の世代に残ってゆくのが自然な進化の道筋なのに.非合理を受け入れてしまうと,進化の道筋において滅ぶ方に枝分かれしてしまうぞ.Visualなんちゃらを使っている人を見ていると,白亜紀後期に変な形に進化して行きやがて滅んだアンモナイトと重なってしまう.