比例主義(リニア主義)

2006.1.1 比例主義というものをライフワークとしたい

#宗教ではなく科学として取り組む
#科学=証明が必要なのだが社会科学系ではそれはなかなかに難しい

努力と成果の比例

農業がそうであるように、人の1.2倍の畑を耕したら1.2倍の収穫が得られ、0.8倍ならば0.8倍の収穫が得られるような社会システムを目指したい。人の2倍働くと10倍の報酬が得られるような非線形システムだと、それは得であるから、それを目指してずるをする輩が出現しがちだ。これは避けたい。
式で表してみよう。努力=x, 成果=yとする。パラメータαの値で社会システムの振る舞いが決まる。

  • 資本主義 y∝xα, α>0(努力を増やすと成果が増す)
  • 共産主義 y∝xα, α=0(努力に関わらず成果が一定)

搾取する側(勝ち組)とされる側(負け組)が明確に分かれる傾向がある近代の資本主義では α>>1(努力を増やすと成果が急激に増す)であると言える。

私の提案する比例主義は資本主義のαの値を1にしましょうというものだ。

  • 比例主義 y∝xα, α=1(努力に比例して成果が増す)

これら基本式といろいろな前提条件を組み合わせると、興味深いシミュレーションができそうだ。前提条件として成果とやる気(努力の源)の関係がまず必要だ。この二つは比例しているというのが最も単純だろうが、私は成果の微分とやる気が比例していると予想している。サラリーマンの例で考えると分かりやすい。もし成果とやる気が比例していたら、成果(役職や給金)が高い人ほどやる気が出るということになる。これは現実に必ずしも合わない。サラリーマンのやる気がでるのは、がんばったら成果(役職や給金)が上がるという場合である。成果の上がり幅=成果の微分であるから、成果の微分がやる気に比例すると言った方が現実に合う。

シミュレーションの結果を待つまでもなく、共産主義だと成果の微分は常に0であるから、やる気は全員0(特権を得られる共産党員除く)である。すると誰も努力しなくなり、社会が崩壊してしまうことが簡単に説明できる。歴史をみても実際にそうなっている。ここで注目する量を成果の総量ではなく、人間に与えるストレスや地球環境に与えるストレスの少なさなどに変えてみると、現代の社会問題のうちいくつかが説明できないだろうか。たとえば地球へのストレスを少なくするのに最適な系はどれになるだろうか。成果と人間へのストレスの両方がうまくバランスする系はどれだろうか。 地球へのストレスがある一定値を超えると破綻してしまう場合(公害、温暖化問題等)、最も社会が長く持続できる系はどれだろうか。モデル構築が難しいが、なかなかに面白い研究になりそうだ。これで中国で革命がおこる可能性等が計算できたらと思うとワクワクする。

ゆとり教育

比例主義はがんばった分だけ褒美がもらえることが合理的だと主張しているのだが、それ以外の主張も含まれている。自分の取り分が少ないのを我慢できるのなら、無理に人並みに働く必要はないとも言っているのである。つまり、人と同じ尺度でたくさん働く人が必ずしも尊い訳ではないと言うことである。ゆとりを尊ぶ考え方である。ゆとり教育と違うのは、ゆとりとは何らかの犠牲あるいは我慢が伴うことを明らかにしている部分である。お役所主導のゆとり教育では、楽をしても人と同じ権利は主張できるという身勝手な考えに陥りがちなところがまずかった。

法律への比例導入(デジタル的な法律の改正=アナログ化)

意外なことだが、文科系の筆頭である法学の根幹となる法というものは、この世でもっともデジタルなものなのである。どのようなものも0,1だけで表現しようとしている。

刑法

0,1の例として分かりやすいのが刑法である。法律に触れなければ、あるいは裁判で無罪を勝ち取れば何のお咎めもなくなる。そのため、法律すれすれのところで悪事を働く輩が後を絶たない。法律をいかに改正しようが、有罪と無罪の境目を定めている限り、その境目でうまく泳ごうとする輩は出てくる。法律上は無罪であっても悪は悪であり、悪の度合いに応じた罰を受けなければおかしいのではないか。これも比例主義のひとつの主張である。どうしたらそのようなことができるかは未だ良い知恵が出ないので、ここでは将来改善すべき目標として掲げるに留める。

ちょっと知恵が湧いた。善悪の絶対尺度は神様でない限り定めることはできないが、それの近似値としてたくさんの人間の気持ちの平均値が使えるのではないか。大人数(1万人以上)の陪審員制はどうだろうか。全員の意見を平均した結果を判決とすれば良い。懲役3.5日とか罰金1400円などという判決もあり得る。

税法

税法にもデジタルかぶれの妙な境目がたくさんある。一般家庭では奥さんの特別控除額の算出方法とか、所得税の算出方法とかがそうだ。境目のちょっと下にしようとして努力する人が多いと思う。なぜそんなことをするかというと得だからだ。これは直しておきたい。控除額や税額を収入の1次式(あるいはここだけは非線形になるが2次式も必要だろう)で表現すれば済むことだ。境目など要らない。他にも生活保護認定や介護認定など境目が悪さをしているところが散見される。ここはすぐに直せるところなので直しておきたい。法人では法人税や消費税特例などがそうだ。固定資産税もそうだ。税法は非合理性の多い法であると言えるだろう。

微分可能(境目がない)というのもポイント

上記の法律論を考えている過程で、「比例」という考え方以外にも「微分可能」(=境目がない、なめらか)の考え方も重要であると思えてきた。比例していれば、当然微分可能なのであるが、所得税の累進課税や電気料金の段階制のように比例していない方が合理的な場合でも、微分可能にしておくと不公平やずるが減ると思う。
2006年年明けの話題として耐震強度偽造問題があった。この被害者への救済条件算出に実際の強度とあるべき強度の比率を用いている。政府や自治体は比率0.5未満の人は公的補助を出すが、それ以上の人へは出さないなどの取り決めを作った。0.5というのはどこから来た数値だろうか。このような根拠のない思いつきの境目は作り出すべきではない。