デカルトの影響
デカルトの著作を読んだことはないが、その引用は頻繁に目にする。よく引用されるのはふたつだ。
ひとつめは「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)だ。これは有名な言葉だ。デカルトは誰もが受け入れられる原理を見つけ、そこから出発し、理性を正しく働かせれば、普遍的な世界認識に達することができると考えた。では、どこから出発するのかを示したのが「われ思う、ゆえにわれあり」だ。
- 感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ。したがって自分の外側にある対象が存在するかどうかには疑いの余地が残るので、確実な出発点とすることはできない。では自分の内側の思考はどうか。幾何学の証明は、間違いを犯しうるので疑わしい。夢もまた疑わしい。なぜなら夢は幻想だから。
- こう考えてゆくと、何ひとつ確実なことは残らないように見える。しかし、まさにそのように疑っている自分が存在すること、これを否定することは絶対にできない。
- したがってこれは、誰もが受け入れられる、かつ受け入れざるをえない哲学の出発点とすることができるはずだ。
ということだ。これについては私は肯定も否定もしない。保留だ。
もうひとつは哲学の方法についての記述だ。これが理系の人全員に影響を与えている。
最も単純な要素から始めてそれを演繹していけば最も複雑なものに達しうるという、還元主義的・数学的な考えを規範にして、以下の4つの規則を定めた。
- 明証的に真であると認めたもの以外、決して受け入れないこと。(明証)
- 考える問題をできるだけ小さい部分にわけること。(分析)
- 最も単純なものから始めて複雑なものに達すること。(総合)
- 何も見落とさなかったか、全てを見直すこと。(枚挙 / 吟味)
このうち2.と3.がくせ者だ。2.の小さい部分に分けて考えろというのは、全体を考えるのは難しいから部分を考えれば易しくなるぞという意味だ。それはまあ分かる。堕落に思えるが仕方がないだろう。しかし、3.の解釈を「小さい部分で考えたものを足し合わせれば全体を考えたことになる」と解釈している人が多いのが20世紀以降では問題になっている。それでは複雑系(世の中のたいていのものはそうだ)はうまく説明できない。実はデカルトは4.でそれに対する注意を言っているのだが、これはあまり気にとめられていない。
この問題について分かりやすく解説しているのが長沼伸一郎氏のベストセラー「物理数学の直感的方法」だ。3体問題を作用マトリックスで説明する辺りだ。他にも「現代経済学の直観的方法」で系の健全性というか希少性を説明するくだりで分かりやすく解説されている。部分で考えてそれを足し合わせても全体を考えたことにならないと解説されている。
今のニューラルネットワークで流行っているのが形式ニューロン(マカロック、ピッツ)の利用だ。ニューロンを一種類と仮定している。しかし、実際のニューロンは何十種類もあり、それぞれ働きが違う。それを一種類にしてしまってよいのだろうか。この省略というか抽象化に対し、一部の人は疑問をいだいている。私もそう思っていて、自ら考えることができる人工知能の構築には複雑なデザインが必要になるだろうと予想している。